開国の史跡1 ルボン山(大土手山)
更新:2018年7月11日
開国へと先導した幕末の佐倉藩と西洋式砲術

武衛流砲術演習を行っていた物井駅北東の佐倉市太田地区
幕末の佐倉藩主・堀田正睦は、洋式兵学や西洋砲術など西洋の学術・文化・技術(蘭学)を採用・奨励し、日本を開国へと先導しました。そして藩校の成徳書院を中心に、すぐれた蘭学者が医学・兵学・教育などを藩士達に教育し、「西の長崎、東の佐倉」といわれるまでに蘭学が盛んになりました。
しかし、外国船侵入が全国各地にあいついで起こり、幕府より佐倉藩が江戸湾の異国船警備を命じられました。そして萱橋などの幕領から伐採した材木によって、江戸湾岸に御台場(品川台場公園)を築き、大砲を備え付け江戸湾の警備にあたりました。
その後、1841年(天保12年)、佐倉藩は江戸中期より太田・飯田(佐倉市)・南波佐間(四街道市)で行われていた武衛一郎左衛門の流派・武衛流砲術を、斉藤一郎左衛門が始めた西洋式の高島流砲術へ切り替えるにあたり、佐倉藩士の砲術家として力量を発揮していた大筑尚志(おおつきたかゆき・保太郎)を中心に砲術射的場を新たに下志津に築造しました。
西洋式砲術練習は1861年(文久元年)から始まり明治時代初期まで行われ、木戸場(佐倉市)から南に向かって5、6キロメートル先の大土手山(かつては神社であったと伝わっています))へ射撃されてました。そして佐倉藩砲術は明治政府へと引き継がれました。
参考:四街道の歴史 第2号
ルボン大尉と大土手山

明治8年ルボン大尉(浅草にて)
その後、明治政府は1873年(明治6年)に陸軍指導者としてフランス陸軍のジョルジュ・ルボン砲兵大尉を陸軍教官として招きいれました(海軍はイギリス)。そしてルボン大尉の指導により、大土手山を改築し、1886年(明治19年)には木戸場の火業所に陸軍砲兵射的学校(後の陸軍野戦砲兵学校)を設立しました。その後、ルボン大尉ゆかりの大土手山はルボン山ともいわれるようになりました。
(写真)
- 市史編纂室
- 四街道町史

大正時代のルボン山

大正時代のルボン山周辺

昭和初期のルボン山

明治天皇御大葬に仏特派大使ルボン夫妻(中央)
ルボン大尉が帰国の際には、大尉の大日本帝国陸軍における功績に対して、明治天皇から勅語を贈られました。そして明治天皇の御大葬には、フランス特派大使として夫人と共に再び来日しました。
その後、大砲の発達・砲戦の向上とともに射的場も必要なくなり、訓練監視台などに使用されました。1918年(大正7年)5月には皇太子殿下(後の昭和天皇)もルボン山から砲兵射撃をご覧になられました。
戦後は周辺地域の子供達によって山滑りなどの遊び場ともなっていました。
桜の季節とルボン山

ルボン山に咲く桜・・・
ルボン山では平和の象徴として春に見事な桜が開花し、市内一面を見渡すことができます。

見上げたルボン山

山頂の桜

風に舞う桜とルボン山
ルボン山(大土手山)の地図
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