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和良比堀込城跡広場

更新:2020年1月9日

左より上総武田氏・臼井氏・房総里見氏・関東公方家・小田原北条氏・千葉氏・原氏の家紋
上総武田氏・臼井氏・房総里見氏・関東公方家・小田原北条氏・千葉氏・原氏

和良比堀込城

現代に伝わる戦国の砦

満開の桜の写真
第2郭跡に咲く満開の桜

美しが丘・和良比地区を一望でき、春には満開の桜が咲く城跡。

戦乱の世を生き抜き、房総を駆け抜けた戦国武将たち。

約500年前の関東戦国時代に想いを馳せてみませんか。

巨大な土塁と第2郭跡の写真
巨大な土塁と第2郭跡の桜

美しが丘・和良比方面を一望の写真
美しが丘・和良比方面を一望

和良比・めいわ方面を一望1
和良比・めいわ方面を一望

満開の桜の写真
満開の桜と戦国ロマン

全貌が明らかになった和良比堀込城

数多くの遺物が出土

和良比堀込城跡航空写真1
和良比堀込城跡航空写真

昭和55年から平成2年の約7年にわたり、住宅・都市整備公団和良比土地区画整理事業に伴う和良比地区の発掘調査が行われました。

この城(砦)跡は掘立柱建造物が複数確認され、主郭を防御する土塁・柵列・空堀、虎口、複数の郭、虎口の前面に馬出(入口の外に小区画の郭を作り防御力を高める)構造を持っています。また周辺の字御屋敷・小太郎等にも中世遺構が確認されています。

出土遺物は、15~16世紀の瀬戸(愛知県)・美濃(岐阜県)窯製品の天目茶碗・すり鉢・小皿・香炉・茶入・壺・水差、常滑(愛知県)窯製品、瓦質土器、かわらけ、羽釜、中国製青磁・白磁陶磁器などが出土。室町時代の城内での生活の一端が窺え、元々は館跡であったとも考えられます。

その他、14~15世紀の板碑、五輪塔、宝篋印塔などの石造類が空堀から多く出土しており、落城後、意図的に落とされたとも考えられます。それらの中には、北朝年号(暦応・康永・永和)を印した板碑や宝篋印塔があり、臼井城を中心とするこの周辺域の武士が、南北朝時代において北朝方の「足利尊氏」に属していたことを裏付ける史料の一つとなっています。この時代の人物として、尊氏の近臣で臼井家中興の祖「臼井興胤」が伝承で知られています。

昭和61年の堀込城保存要望により一部保存が決定され、平成3年に「堀込城跡緑地」として開設されました。

『和良比遺跡発掘調査報告書3』印旛郡市文化財センター
『千葉県の歴史 資料編 中世1(考古資料)』千葉県
『むかしの和良比~1984~』四街道市教育委員会

  • 写真:権利者の許可なく転載等することは法律により禁じられています

堀込城全景南西の写真
堀込城全景南西より

馬出と虎口周辺の写真
北側から馬出と虎口周辺

空堀と土塁の写真
深く掘られた空堀と土塁

出土した永和5年(1379)宝篋印塔の写真
出土した永和5年(1379)宝篋印塔

空堀へ投げ込まれた石造物の写真
空堀へ投げ込まれた石造物類

投げ込まれた宝篋印塔の写真
空堀へ投げ込まれた宝篋印塔

出土した天目茶碗の写真
出土した天目茶碗

出土した暦応4年(1341)武蔵型板碑の写真
出土した暦応4年(1341)武蔵型板碑

空堀と土塁跡(平成3年頃)の写真
保存された土塁跡(平成3年頃)

虎口跡と第2郭跡(平成3年頃)の写真
保存された第2郭跡(平成3年頃)

所在地

  • 四街道市美しが丘1丁目21番地
  • 四街道駅南口より徒歩12分
  • 平和交通バス めいわ(四街道)線「堀込」下車 徒歩5分
  • 「御屋敷通り」コンビニエンスストア向かい
  • 駐車場なし
  • トイレなし

外部サイトへリンク 新規ウインドウで開きます。和良比堀込城跡広場の地図

和良比堀込城跡広場の地図

マナーを守りましょう

  • 出発前に文化財の所在地を確認してから出かけましょう。
  • 文化財の中には現在でも信仰の対象になっているものがあります。失礼のないように見学しましょう。
  • 私有地や神社などの建物の中に、無断で入ることのないようにしましょう。
  • 文化財には非公開のものがありますので、事前によく調べるようにしましょう。
  • 個人所有の文化財や、寺社及び仏像などは保管・管理の都合上、見学できないものがあります。
  • 文化財を大切にする気持ち同様、動物や植物も傷つけないようにしましょう。
  • ゴミは思い出といっしょに、家まで持ち帰りましょう。

迫力の100分の1スケール立体地形図

第二庁舎では100分の1スケールの立体地形図を展示しています。堀込城の全貌と、開発前周辺地形の様子がわかります。

  • 展示場所:四街道市教育委員会 第2庁舎1階ロビー

「中世房総政治史」関東戦国時代と四街道市域(ダイジェスト)

室町幕府足利将軍家と鎌倉府関東足利家・守護大名

室町幕府・鎌倉府管轄図の写真
室町幕府・鎌倉府管轄図

今から約680年前の南北朝時代動乱後、鎌倉を中心とする東国は、京都室町の足利将軍家に代わり「鎌倉府関東足利家(鎌倉公方)」が実質的に統治していました。

室町時代中期上総・下総国周辺管轄図の写真
室町時代中期上総・下総国周辺管轄図

そして、下総国一帯を鎌倉幕府創設期からの名門武家「千葉介」(ちばのすけ・千葉宗家・千葉亥鼻城)が、下総国守護職として代々治め、上総・千葉氏一族の「臼井氏」が、守護代もしくは地頭として臼井城を中心に臼井庄(船橋市東部・八千代市・佐倉市西部・四街道市北部)と千葉庄北端部(四街道市南部)を治めていました。

千葉氏一族は妙見神を信仰し、代々「胤」の字を一門通字にしていたのが特徴です。

室町時代の臼井氏は、関東足利家の忠臣・奉行衆として「臼井胤盛」や一族家臣「吉岡盛胤・春胤」などが仕え、主君の守護大名千葉氏から独立性を帯びた一族として下総国内に勢力を保ちました。そして、室町時代中期頃には一族家臣の「蕨氏(わらびし)」が千葉庄蕨地域(四街道市和良比・美しが丘地区)を治めていたと考えられます。

関東戦国時代の始まり「享徳の乱」と「千葉合戦」

その後、将軍の座を狙う鎌倉公方「足利持氏」と足利将軍家・関東管領山内上杉氏(鎌倉公方補佐役)が対立、持氏が追討されます。やがて再興された鎌倉公方「足利成氏」も、父と同様対立。幕府勢に攻められるも、下総国古河(茨城県古河市)へと遷り、「古河公方」として東関東に権勢を振るいました。

そして、関東戦国時代の起点ともいわれる“享徳の乱”(享徳3年~文明14年・1455~1482)が勃発。この大乱に翻弄された千葉家では一族が分裂、古河公方成氏派「原胤房・馬加康胤」などの庶家重臣が、幕府・関東管領派の千葉宗家を滅ぼす内乱”千葉合戦”が起こりました。

落ち延びた千葉宗家一門は、武蔵国に勢力を持つ上杉家一門の「扇谷上杉氏」を頼り、「武蔵千葉氏」として脈を保ちます。

この時、臼井家の「臼井胤慶」は、古河公方と幕府・関東管領に中立的立場を保っていたことが窺えます(香取之亮家文書・市内文明年間板碑)。

上・下総国“国衆”略図の写真
上・下総国“国衆”略図

馬加康胤が幕府勢に討たれると、下総国内では、古河公方成氏派の千葉介第12代「千葉介氏胤」御一家支流「岩橋輔胤」(馬場氏一門・印東庄岩橋・酒々井町・佐倉千葉氏初代)と「原胤房」(千葉庄小弓城・風早庄小金城)、幕府・関東管領派の「宍倉胤則」(馬場氏一門・印東庄篠塚・佐倉市小篠塚)が台頭します。

この頃、成氏に従う「武田右馬助入道信長」が上総国に侵攻し、守護大名犬懸上杉勢を払拭します。「里見左馬助義実」は安房国に侵攻し、土豪らを傘下に収めました。

一方、京都(幕府)では応仁の乱が勃発(応仁元年~文明9年・1467~1477)、足利将軍家の権威が失墜し、日本は約100年も続く戦国の世となります。

関東戦国時代初期 勢力図の写真
関東戦国時代初期 勢力図

戦国房総に台頭した「佐倉千葉氏」と四街道市域の諸勢力

本佐倉城(酒々井町・佐倉市)へ拠点を移した輔胤嫡男の千葉介第18代「千葉介孝胤」は、成氏と幕府・関東管領の和睦に反対。そして”境根原合戦”にて扇谷上杉氏・太田道灌・武蔵千葉氏と大激戦を繰り広げ、臼井城を落とされるも奇襲により奪還したと伝わっています。

孝胤は長男の「勝胤」を後継者、三男の「少納言」を臼井家へ入嗣、そして少納言の子「右馬助」を臼井領内の物井(四街道市物井字郷・北ノ作・館ノ山周辺)へ「物井殿」として入封(「千学集」)。印旛地域を中心に下総国内を再び結束していきます。

この頃、臼井宗家では少納言、勝胤弟の「臼井持胤」(「玄仙本臼井系図」)、臼井行胤嫡流「臼井胤縁」(「大竹系図」『下総町史』)の三流に分かれていることが臼井氏関連系図・文書から窺え、少納言と臼井四郎持胤、物井右馬助と持胤次男の「臼井左衛門幸胤」をそれぞれ同一人物、もしくは別人物とする研究もあります。

中野戸崎城方面(左)と鹿島川を挟み小篠塚城(右)の写真
みそら中野戸崎城方面(左)と鹿島川を挟み小篠塚城(右)

その後、古河公方足利政氏・高基父子が、千葉介孝胤・勝胤討伐のため、約3年間に渡り印東庄篠塚(佐倉市小篠塚)に陣を構えました(後に和睦)。この時の臼井氏の動向はわかっていませんが、佐倉市根郷地区周辺、鹿島川対岸の物井城・山梨城周辺では、緊迫状況が続いたと考えられます。

永正年中(1505~)には、高基を支持する千葉介第19代「千葉介勝胤」が、下総国へ侵攻した「伊勢新九郎盛時(北条早雲)」を武蔵国境にて撃退したと伝わっています。

永正2年(1505)の勝胤嫡男「千葉昌胤」元服式には、金剛寺少弼(僧侶・監察次官・物井不動堂金剛寺ヵ)、臼井氏一族の坂戸氏(佐倉市坂戸)、山梨氏(四街道市山梨・山梨城)らが列しています。

古河公方家における父子、兄弟の争いへ

戦国時代 上総・下総国主要城館略図の写真
戦国時代 上総・下総国主要城館略図

一方、千葉庄小弓城(千葉市中央区南生実町)を拠点とし、下総国内に権勢を振るっていた千葉家筆頭家老「原胤隆」ら原氏一族は、衰退した上総国の犬懸上杉氏に代わり台頭した「庁南武田氏」(長生郡長南町。甲斐武田氏の分家)、「真里谷武田氏」(木更津市真里谷。庁南武田氏の分家。両家総称で上総武田氏ともいう)と領土を巡って交戦を繰り返していました。

その頃、古河公方足利高基実弟の僧侶「空然(宗斎)」(鶴岡八幡宮若宮別当)が、父政氏の支持を受け「足利義明」として還俗しました。

やがて、山内・扇谷上杉家の内紛に巻き込まれた古河公方家が、父子による主導権争いに発展、再び東国が二分されます。そして兄弟による正嫡争いに発展していきました。

戦国時代初中期勢力略図・『千葉県地名変遷総覧』補足版の写真
戦国時代初中期勢力略図・『千葉県地名変遷総覧』補足版

~関東戦国の風雲児~ 関東足利家 足利義明の台頭と和良比堀込城

関東足利家の勇将「足利義明」((成田名所図会版本)の写真
関東足利家の勇将「足利義明」(成田名所図会版本)

永正14年(1517)5月、義明を支持する真里谷武田氏が鹿島川対岸の白井庄弥富(佐倉市岩富)へ侵攻。そして伊勢新九郎盛時(北条早雲)支援の下、千葉庄へ進出して原氏の小弓城を攻落、義明(道哲)を迎えて大将として担ぎました。兄の高基と対立した義明は我こそが公方家後継者として「小弓公方」(大弓殿)を称し、小弓城を本城とします。その後、扇谷上杉氏と接近しつつ、東関東に勢力を急拡大します。

喜連川文書)足利道哲書状写の写真
資料1)敵城攻略後、蕨に帰陣した里見義通を足利義明が称賛(年未詳)

そして、義明は千葉庄蕨(和良比・美しが丘)を関東攻略最前線の要塞として、小弓公方派で安房国戦国大名の稲村城々主「里見上野入道義通」を配備。敵城(古河公方勢)へ侵攻したことが資料1からわかります。

  • 資料1
  1. 推定:永正17年(1520)、もしくは大永元年(1521)に発給
  2. 「喜連川文書」『千葉県の歴史 資料編中世4』・原本栃木県さくら市所蔵
  • 想定進軍ルート
  1. 小名木川・鹿島川・印波浦→敵城
  2. 手繰川・印波浦→敵城

またこの資料1からは、古河公方勢最重要拠点であった関宿城(野田市)への侵攻作戦が練られていたことが窺え、大規模な小弓公方勢主力部隊が和良比堀込城に集結していたことが考えられます。

小弓公方勢がどういった経緯で和良比村周辺域まで勢力を広げたのかは未だ明らかになっていません。

小弓公方勢 里見義通軍 進軍ルート想定図の写真
小弓公方勢 里見義通軍 進軍ルート想定図

臼井氏が古河公方を離反して小弓公方勢へ

そして、高基に激震が走ります。

  • 千葉介勝胤宛古河公方足利高基書状(渡辺忠胤家文書・年未詳)

「臼井不忠千代未聞候」(臼井の不忠は前代未聞であるぞ)

この頃、臼井氏は古河公方足利高基・佐倉千葉氏から離反して、新興勢力の小弓公方勢に加わり、葛飾郡方面攻略に参戦しました。

勝胤と昌胤父子は、勢力版図が激変したこの状況を打破するため、庁南武田宗信を娘婿に迎え、小田原から武蔵国江戸まで進出した「北条氏綱・氏康」と手を組み、且つ対立していた義明とも水面下で交渉、あらゆる策を廻らします。

小弓公方勢力図の写真
小弓公方勢力図

高基は勝胤と昌胤父子らの忠心を讃える一方、公方家に代々忠義であった臼井氏の離反に対する怒りは収まらず、

  • 長南武田三河守宛足利高基書状(東京大学史料編纂所所蔵文書・年未詳)

「臼井事申旨候歟、露命之なからへ度も彼仁滅亡を見度迄候」

(私の命を永らえてでも、臼井の滅亡を見とどけてやろうぞ)

その後、小弓公方勢が葛飾郡鴻之台(市川市)へ侵攻します。

関東戦国時代中期 勢力図の写真
関東戦国時代中期 勢力図

古河公方勢と小弓公方勢が激突した第1次国府台合戦

古河公方勢へ乗り込んだ足利義明(成田名所図会版本)
自ら古河公方勢へ乗り込んだ足利義明(成田名所図会版本)

天文7年(1538)、小弓公方・真里谷武田氏・安房里見氏連合軍と、古河公方足利晴氏・小田原北条氏・千葉氏連合軍が大激戦を繰り広げます(第1次国府台合戦)。しかし、敵陣へ自ら乗り込んだ義明は矢に打たれ討死、小弓公方勢は敗退しました。勢いをつけた「原胤清」は千葉庄に侵攻、小弓城と周辺域を奪還します。

この合戦における臼井氏の動向は明らかになっていませんが、この頃、千葉介第20代「千葉介昌胤」の次男が臼井家に入嗣して「臼井四郎胤寿」(『千学集』)、三男が臼井家領であった千葉庄山梨(四街道市山梨)に居城して「月見里(やまなし)五郎政胤」を称した(近世野馬奉行綿貫家史料)と伝わっています。

本国へ引き上げた里見家当主「里見義堯」は、義明遺児を匿い勢力を温存。上総国の真里谷武田氏も傘下に収め、北総・相模攻略のため再び侵攻します。これらのことから、当時の四街道市域は、領土を巡り激しい攻防が繰り返されていたことが考えられます。

その後、天文15年(1546)の河越夜戦にて両上杉家が没落、小田原北条氏が東関東へ勢力を広げていきます。その数か月後には、千葉介第21代「千葉介利胤」が臼井氏を攻撃しています(臼井胤度カ)。

翌年には、千葉合戦における千葉家内紛の際、原胤房に攻められ焼失していた千葉妙見宮(千葉神社)を、約100年後の天文16年(1547)に利胤が主導になり再建。下総国内から材木が集められ、臼井十二郷(旧千代田町域・他)・鹿渡・山梨・小名木の山々の材木も使われ、木材資源に恵まれた地域であったことが窺えます(『千学集抜粋』)。

天文19年(1550)11月23日には千葉妙見宮遷宮式が盛大に行われ、「千葉新介親胤」、原胤清・一族に従い、「臼井の一門、志津の御門、坂戸、吉岡、小船木(小名木)、粟山(栗山)、申台(中台)、山梨、蕨の家風中、押田、渡辺、神保、何れも太刀上げ申す也」(『千学集抜粋』)として臼井氏一族・重臣が佐倉千葉氏方に復帰・列しており、前国府台合戦前後において政治的駆け引きがあり、佐倉千葉氏の被官として家臣団(後の佐倉衆・森山衆)に組み込まれていったと考えられます。

  • 参照
  1. 「千学集抜粋」・「千葉傳考記」・「千葉実録」 『房総叢書』
  2. 佐藤博信『中世東国政治史論』
  3. 黒田基樹「古河・小弓両公方家と千葉氏」『佐倉市史研究 第24号』
  4. 千野原靖方「関東足利氏の正嫡争いと房総諸士」『小弓公方足利義明』
  5. 千野原靖方『戦国房総人名辞典』
  6. 遠山成一「四街道市の千葉一族と臼井一族」(平成27年度市民大学講座)
  7. 遠山成一「陸上交通からみた四街道市域」『四街道の歴史 市制施行30周年記念誌』
  8. 外山信司「戦国末期の下総原氏」『千葉史学 第17号』
  9. 滝川恒昭「戦国前期の房総里見氏に関する考察」『鎌倉 第19号』
  10. 滝川恒昭「房総と四街道の戦国時代~里見氏との関係を中心にして~」
  11. 和氣俊行「下総国篠塚陣についての基礎的考察」『中世東国の政治構造:上』
  12. 高橋健一「四街道市の近世」(平成27年度四街道市の歴史講演会)
  13. 石渡洋平「戦国期下総臼井氏をめぐる諸問題」『佐倉市史研究 第26号』
  14. 石渡洋平「戦国期下総国における”蕨”の位置」『四街道の歴史 第11号』
  15. 石渡洋平「戦国時代の四街道と下総の国衆」(平成28年度市民大学講座)
  16. 「足利尊氏近臣・臼井興胤の実像」『房総の郷土史 第43号』
  17. 柴田聡司「原氏私稿」『四街道の歴史 第9号』

注釈:佐藤博信氏によって提唱・定説となった(資料1)における四街道市の蕨(和良比堀込城)は、黒田基樹氏・遠山成一氏の研究で進展を図りましたが、「この蕨は埼玉県の蕨ではないか」と異論を唱える研究者もおり、歴史学において長い間論争されてきました。しかし、滝川恒昭氏の研究により「安房里見氏が武蔵国蕨から周辺域に侵攻することは、当時の周辺勢力・状況から絶対にありえない」と四街道市の蕨であることが改めて研究・発表され、歴史学において定説となりました。その後、石渡洋平氏により臼井領における当時の国衆研究が進展しました。

  • 写真:権利者の許可なく転載等することは法律により禁じられています

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