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市史編さんだより 創刊号

更新:2017年9月25日

創刊にあたって 

四街道市史編さん委員会 委員長 武富 裕次

 
本市では、総合計画における施策「文化の創造と歴史の継承」を実現するため、市史編さん事業の方向性を示す「市史編さん基本方針」を平成29年2月に制定しました。そして、このたび基本方針の付帯事業に基づき、「よつかいどう市史編さんだより」を創刊することとなりました。

今日、市民アイデンティティが高まる中、私たちの「ふるさと四街道」への深い誇りと愛着を持てる「郷土愛の醸成」と未来へ向けた「まちづくり」を推進するため、新たな市史編さんが必要とされています。

私たちの市域は、今から約千三百年前の古代に制定された「大宝律令」において、「下総国千葉郡物部郷(旧千代田町域)・山梨郷(旧旭村域)」として編成され、中近世の時代を挟み、佐倉藩西洋式砲術演習地の流れを受け継いだ明治時代以降、「関東一の大砲射撃場」、「軍隊のまち」として発展しました。終戦後には文教都市、旧演習地農地開拓、団地開発を推し進め、急激な人口増加を辿りました。これら歴史的大転換を迎えた時代を、後世に伝えるべく資料調査・収集・研究に努め、全貌を明らかにしていく必要があります。

今後は編さん作業における経過・成果を「市史編さんだより」で掲載していく予定です。この市史編さんだよりを通じ、郷土四街道の歴史や文化への理解をさらに深めていただくことができれば幸いです。

四街道市史編さん基本方針の制定について

ご自宅に歴史資料が眠っていませんか

新たな歴史編さんスタート(歴史・民俗資料調査)

創刊記念特集 大坂夏の陣と四街道

真田信繁に挑んだ男 “間宮新四郎盛定”

文:市史編さんグループ事務局

1.はじめに 


慶長20(1615)年、徳川家(江戸幕府)と豊臣家の大決戦「大坂夏の陣」において、「日本一の兵」とうたわれるあの豊臣勢名将「真田源次郎左衛門佐信繁(幸村)」に一戦を挑んだ四街道市山梨地区出生の徳川勢武将「間宮新四郎盛定(まみや しんしろう もりさだ・初名照継)」について、皆様にご紹介いたします。

2.豊臣秀吉の小田原征伐と天下統一

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公の写真
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉公(小学國史より)


天正10(1582)年6月、織田信長が明智光秀らに討たれた「本能寺の変」の後、羽柴秀吉は関白・太政大臣へ就任、豊臣姓を賜り、豊臣政権を確立しました。

天正18(1590)年7月には、関東の「小田原(相模)北条氏・千葉氏」を滅ぼし(小田原征伐)、天下統一を成し遂げます。

その後、関白秀吉より、三河・駿河から関東へ領土移封を命じられた家康は、間宮氏を始め、多くの小田原北条氏・千葉氏旧遺臣を自身の旗本・家臣として取り込みました。

3.佐々木氏支流間宮一族と四街道

間宮家「隅立四ツ目結紋」の写真
間宮家「隅立四ツ目結紋」


隅立四ツ目結紋を家紋とする「間宮氏」は、鎌倉・室町時代に全国的勢力を持った守護大名「佐々木氏」の一族で、第59代宇多天皇(在位887年から897年)の孫「源雅信」から派生した武門「宇多源氏」の一派です。一族からは六角氏・京極氏・尼子氏・黒田氏・横山氏・大熊氏・大橋氏など、数々の名門近江源氏が誕生しています。

間宮一族は室町時代になると、関東管領上杉氏の有力一族「扇谷上杉氏」に仕え、重臣大森氏の家臣として勢力を伸ばします。その後、相模国一帯に勢力を広げた伊勢新九郎盛時(北条早雲)の家臣となり、小田原北条氏重臣として数々の戦功を上げ、関東にその武名を轟かせました。中でも、氏康・氏政・氏直三代に仕えた間宮豊前守康俊一門の「康信・綱信・信盛」が特に知られ、間宮三傑ともいわれています。

三傑の間宮源十郎若狭守綱信は、八王子城々主の「北条氏照」家老として活躍。天正8(1580)年3月には笠原康明・原和泉守と共に、武田家討伐の北条・織田軍事同盟交渉役として安土城の織田信長の下へ派遣されています(『信長公記』)。そして天正18年(1590)の小田原征伐では、間宮三傑を始めとする間宮一族も大奮闘しましたが、秀吉軍の前に敗れ、徳川旗本に取り立てられました。

康俊を継ぐ間宮宗家の「新左衛門直元」は、本市域の鹿渡村281石・中野村・和田村・成山村など千葉郡・印旛郡内に1000石の知行地を、直元の叔母「於久(おひさ)」は家康側室に、綱信嫡子の「正重」は高津村(八千代市)に300石の知行地を得て「庄五郎家」を、正重弟の「頼次」は山梨村(四街道市)に200石の知行地を得て「十左衛門家」を興しました。そして頼次嫡子の「照継(のちの盛定)」が誕生します。

間宮一族の末裔では、間宮林蔵、杉田玄白などが知られています。


間宮一族略系図

豊臣政権から江戸幕府初期 16か村の旗本知行地の写真
豊臣政権から江戸幕府初期 16か村の旗本知行地(現市域)

4.大坂の陣と間宮一族


豊臣家五七桐紋と徳川家三つ葉葵紋


慶長5(1600)年9月、秀吉五奉行の石田三成と徳川勢が争った「関ヶ原の戦い」においても間宮一族は戦功を上げ、徳川幕藩体制、「大坂の陣」へと続きます。

慶長19(1614)年11月の「冬の陣」では、宗家の間宮直元が赤備えの井伊直孝隊に加わります。井伊隊は信繁が築いたあの「真田丸」に最前線で攻戦しています。和議後、直元は陣中で没しました。

そして翌20(1615)年5月6日、「夏の陣」における「道明寺・誉田合戦」と「八尾・若江合戦」、5月7日には最終決戦「天王寺・岡山の戦い」が始まりました。

明け方、徳川勢では江戸幕府二代将軍秀忠が岡山口方面に出陣。将軍直属の「大番頭」として高木正次隊、阿部正次隊が従い、その先手に前田利常、本多忠純、加藤嘉明、黒田長政らに続き、藤堂高虎、井伊直孝、細川忠興、本多康俊、本多康紀、石河貞政らが進発。後備に水野忠清、青山忠俊、酒井忠世、土井利勝らが続きました。

この時、山梨村の間宮十左衛門家二代目、弱冠19歳の若武者「間宮新四郎盛定(照継)」は、「台徳院殿につかへたてまつり、大番に列し、元和(慶長)元年大坂御陣のとき高木主水正正次が組に属してしたがひたてまつり」、盛定の従兄弟で高津村(八千代市)の「間宮庄五郎正秀」は、「東照宮(家康)につかへたてまつり大番に列し、元和(慶長)元年大坂陣のとき高木主水正正次が手に属して供奉」とあり、両人「大番」として高木隊に従い参戦しました(『寛政重修諸家譜』)。

決死の証「海野・真田六文銭」の写真
決死の証「海野・真田六文銭」


大御所家康は、天王寺口方面に出陣。先手に本多忠朝、真田信吉・信政(信之子・信繁甥)、相馬利胤らが備え、続いて小笠原秀政、松平信吉、成田氏宗、酒井家次、榊原康勝らが進み、内藤正成、植村家政らが御輿に従い、道明寺近辺には伊達政宗らが出陣しました。そして茶臼山方面には、越前松平忠直隊(越前北ノ庄藩主。結城秀康の長男)が進み、忠直に仕える「原平左衛門」(元本佐倉城代・臼井城代「原邦房(森山原氏)」の孫)も参戦しました。

一方、徳川勢よりも少し早く豊臣勢の真田信繁・幸昌・信倍らは天王寺口方面、毛利勝永らは四天王寺南門前方面へ、大野治房は岡山口方面へ進軍しました。


慶長20年(1615)5月7日の最終決戦「天王寺・岡山の戦い」合戦略図


正午に天王寺口付近で開戦、毛利隊らと激戦を繰り広げた本多忠朝が討死、駆けつけた小笠原秀政隊も敗れ、諏訪忠恒、榊原康勝も次々と破れました。続いて岡山口でも開戦となり、藤堂・井伊隊らも進軍、天王寺側面を狙うも毛利隊に阻まれ、岡山口の大野隊が秀忠先手・大番へ攻撃を仕掛けます。

そして真田信繁隊が茶臼山から討って出て越前松平隊に突撃、家康本陣へ突き進みます。家康本陣が信繁隊・毛利勝永隊に追い詰められたところへ、高木・間宮隊、藤堂・井伊隊らが救援へ駆けつけました。

庄五郎正秀項には、「五月七日眞田幸村が陣をうちて戦死す。年三十一、法名常秀。采地千葉郡高津村の観音寺に葬る。子孫靭負方好がときこふて高津村に祠を建、神祇道をもつてこれを祭り、高秀靈神と贈る」とあるように、真田隊、高木隊を始め両軍大乱戦となり多数の戦死者を出しました(『寛政重修諸家譜』)。この時、信繁に追い詰められた家康は自害を覚悟したもと伝わっています。

やがて疲弊した信繁隊が撤退、信繁は越前松平隊の西尾仁左衛門に討取られました。その後、豊臣勢は総退却、大坂城も全焼し陥落、翌8日には豊臣秀頼が自害、豊臣家が滅亡しました。そして名実ともに、徳川の時代となりました(元和偃武)。

この一連の戦いにおいて勇戦した盛定は、「勇戦して鎗創をかうぶり、凱旋のゝちいくほどなく死す」とあり、槍傷を負いながらも信繁を始めとする豊臣勢猛者たちと戦い抜き、そして帰還しましたが、数か月後に没しました(『寛政重修諸家譜』)。間宮家末裔の史料には「新四郎、大坂夏陣手疵二而死去高野山葬」(間宮小左衛門家「間宮系図」)とあります。

5.間宮十左衛門家と山梨大隆寺

間宮十左衛門家 供養墓の写真
間宮十左衛門家 供養墓


盛定亡き後、実弟の「信繩(吉俊)」が十左衛門家を継承しました。山梨村間宮屋敷跡は未だ不明ですが、地区内の「曹洞宗通幻派鷲棲山大隆寺」本堂裏墓地には、約350年前に建立された一族を弔う供養墓が今もひっそりと祀られています。

盛定墓碑には「干時元和元年九月二十九日卒 為悟室宗頓居士菩提也 俗名間宮新四郎照継十九才」と彫刻されています。


間宮十左衛門家 供養墓

  • 形態 尖頂舟形式墓標  
  • 材質 安山岩
  • 造立年代 江戸時代初期
  • 供養墓左より
  1. 四代 孫兵衛盛重
  2. 初代 十左衛門頼次室(玉井帯刀女)
  3. 二代 新四郎盛定(照継)
  4. 三代 七郎兵衛吉俊(信繩)
  5. 十左衛門家一族二名(不明)
  • 見学可能
  • 千葉県四街道市山梨1496
  • 千葉内陸バスみそら団地線・四街道駅南口から旭小学校下車徒歩3分
  • 駐車場有・トイレなし
  • マナーをお守りください


大隆寺境内「十左衛門家供養墓」 案内図

  • 参照
  1. 日色義忠「続無縁仏となった旗本間宮氏の群像」『四街道市の文化財第15号』
  2. 平山優『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』
  3. 高橋健一「佐倉史断想」『玉縄北条氏』
  4. 小池米子「江戸時代初期四街道の旗本たち」『四街道の歴史第6号』
  5. 柴裕之「武田信吉の佐倉領支配」『四街道の歴史第11号』
  6. 『国史大系 徳川実記』
  7. 『千葉県印旛郡誌』
  8. 『千葉県の地名』

さかのぼり 四街道の歴史(第1回)

文:四街道市史編さん主任 中村政弘

昭和30(1955)年3月のできごと

  • 国外 
  1. アジア・アフリカ会議開催(4月)
  2. ワルシャワ条約機構結成(5月)冷戦激化
  • 国内 
  1. 砂川闘争(9月)
  2. 自民党結成(11月)
  3. 原子力基本法(12月)
  4. 神武景気始まる(高度経済成長)
  • 県内 
  1. 県民所得が戦前の水準に戻る(3月)
  2. 新京成電鉄開通(3月)
  3. 県独自の犬税新設(11月)

まずは、四街道町が誕生して62年目になりますが、新聞を通して四街道の歴史をさかのぼり、当時の様子を見ていきたいと思います。

四街道町の誕生

昭和30年合併時に役場として使用された千代田町役場(物井区)の写真
昭和30年合併時に役場とした千代田町役場(物井三叉路近く・昭和22年頃)

  • 写真 高橋家所蔵(町役場竣工式記念)


この昭和30年の合併は、昭和28(1953)年の町村合併促進法をうけて、現在の市町村の原形(佐倉市や八街市など)ができた「昭和の大合併」のものです。

四街道町の合併は、当初から千葉市・佐倉市など周辺の市町村などとの合併が検討され、住民の意向も分裂していました。旭村の馬渡地区は佐倉市へ編入(昭和30年1月)となりました。700余りの人々が地域的な結びつきなどにより、選択したものです。

そして、ようやく昭和30年3月10日に千代田町と旭村が合併しました。人口は1万8146人(千代田町1万2338人、旭村5808人)です。周辺の町としては、八街町(2万5320人)、印西町(1万7664人)などがありました。

千代田町役場での清宮町長の写真
千代田町役場での清宮町長(昭和20年代)

清宮彦一(亀崎区)

  1. 千代田町長:昭和23年11月から昭和30年3月
  2. 四街道町長:昭和30年4月から昭和32年1月
  • 写真 清宮家所蔵

役場前での小川町長(昭和34年)の写真
四街道町役場(現四街道公民館)前での小川町長(昭和34年)

小川治助(山梨区)

  1. 旭  村長:昭和27年11月から昭和30年3月
  2. 四街道町長:昭和32年2月から昭和39年3月
  • 写真 高橋家所蔵

町村合併促進法施行前の『房総展望』 昭和28年1月号の写真
町村合併促進法施行前の『房総展望』 昭和28年1月号(栗原東洋文庫)より

合併合議手打式(昭和29年・現四街道公民館)の写真
合併合議手打式(昭和29年・現四街道公民館・市所蔵)


「祝 四街道町発足(千代田町・旭村)合併」 『千葉新聞』3月10日号より


『千葉新聞』には、四街道町の記事は載りませんでしたが、上記県紙3月10日に「祝 四街道町発足(千代田町・旭村)合併 昭和30年3月10日」の広告が載っています。

旧千代田町、旭村の町村長・助役・収入役・町村議会議員(正副議長)の氏名一欄の外に、四街道町職務執行者清宮彦一(旧千代田町長)の「四街道町の発足に当って町民各位に望む」の文が掲載されています。全文は折られて撮影されたため不明ですが、当時問題となっていた「旧千代田町北部各位からの要望の点も慎重且つ精密に検討して真の住民福祉の推進に解決点を見出したい」と述べています。

『千葉新聞』とは、敗戦直後(昭和20年12月1日)に創刊されました。それまでは、戦時中に県紙の『千葉新報』が政府の新聞統合政策により『毎日新聞』と合併されていました。欠号が多く不鮮明なものもありますが、県立中央図書館や千葉県文書館などで閲覧できます。昭和31年に労働争議があり廃刊、『千葉日報』へ引継がれました。

『房総展望』 昭和30年5月号の写真
「祝誕生四街道町」『房総展望』 昭和30年5月号(栗原東洋文庫)より

近藤貴義宛 清宮彦一町長案内状の写真
近藤貴義宛 清宮彦一町長案内状(昭和30年)


上記文書は、昭和30年7月3日に千葉大学教育学部(旧野砲校兵舎)で行われた合併祝賀式の開催に伴い、清宮町長から元千代田村々会議員・元千代田町長の近藤貴義へ送られた案内状です。

  • 写真 近藤貴子所蔵文書

千代田村々会議員時代の後列左・近藤氏と右・清宮氏(昭和14年)の写真
千代田村々会議員時代の後列左・近藤氏と右・清宮氏(昭和14年)

近藤貴義(下志津新田区)

  1. 千代田町長:昭和20年2月から昭和22年3月
  • 写真 小山家所蔵

分離問題

合併当初の四街道町公民館(護国神社社務所)の写真
合併当初の四街道町公民館(護国神社社務所に開設・市所蔵)


明けて昭和31年に入ると、1月17日に緊急町議会が開催されましたが分離問題は結論が出ませんでした。しかし大勢は知事勧告をあくまで拒否、住民投票実施になる予想となりました。清宮町長らは、県庁を訪れて県の指導に対して責任を追及しました。

1月21日の記事には、「四街道の分割悪化」が載り県町村合併審議会の編入意向に対し、旧旭村代表者らは19日県庁において町の分町なら旧旭村も分離という強硬な要求をしています。また、24日の記事には「雪の県庁に座り込み/昨夕、四街道町民押かく」と分離反対派の動きを載せています。これを見ると、北部地区の吉見・畦田の2地区の境界線(分割)構想が読み取れます。

4月には、分町問題で集団休校や佐倉市中学校への転校なども話題になりました。この時は四街道町ばかりでなく、関宿町(現野田市)、富里村(現富里市)、海上村(現市原市)、和田町(現南房総市)なども紛争をかかえていました。

結局、12月27日の住民投票の結果(投票率94.73%)は賛成派が3分の2以上を占めて分離が決まりました。これは全国初のケースで、県の選挙管理委員会の下で行われたのです。

  • 参考資料
  1. 『佐倉市史 巻四』・2008年
  2. 『千葉県の歴史 通史編近現代3』・2009年
  3. 中村政弘「町村合併をめぐる紛争」『千葉県史研究』第16号・2008年
  4. 中村政弘「四街道における町村合併問題について(1)」『四街道の歴史 第11号』・2016年
  • 協力
  1. 千葉県文書館
  2. 千葉県立中央図書館

古文書が伝える四街道の歴史 第1回 江戸時代の六方野

  • 文・市史編さん協力員代表 大矢敏夫

1.六方野の開拓

左・六方野原から中央・大日山、右・下志津原(戦後大土手山よりの写真
左・六方野原から中央遠方・大日山、右・下志津原(戦後大土手山より)


水戸光圀(水戸黄門)「甲寅紀行」『房総叢書』 延宝2(1674)年4月27日抜粋

「・・・六方の原と云ふ渺茫たる(遠くはるかな)原野を過ぐ。千葉へ寄る・・・」


四街道市の西北に“鹿放ヶ丘”(ろっぽうがおか)という地区があります。戦後、この地の開拓者たちが命名した地名です。鹿放ヶ丘の西側に隣接する千葉市側には、同じ読みの千葉市稲毛区六方町(ろっぽうちょう)があります。

この両地域は古くから“六方野”と呼ばれた広大な原野の北部にあり、南は現在の市域めいわ団地・鷹の台団地から金親の手前まで、西は千葉市の宇那谷から犢橋の手前まで広がっていました。

寛文年間開発当時の「権現山」(千葉県文書館所蔵「長沼新田絵図」より
寛文年間(1661~)開発当時の「権現山」(「長沼新田絵図」)

  • 写真 千葉県文書館所蔵(許可番号29-県-5)


六方野の開発は、江戸時代の寛文12(1672)年に江戸の商人たちが幕府に願ったことから始まり、800町歩を超える「まぐさ場」が開発され、長沼新田が誕生しました(千葉県文書館所蔵「長沼新田絵図」)。
そして現在の大日山(当時は権現山)の南方地域が長沼新田の新畑となり、東金御成街道の両側に長沼新田の集落が起立しました(現在の国道16号線長沼交差点周辺)。

権現山から大日山へ


権現山は宇那谷村の村域に含まれ、村の檀那寺である大聖寺の境外地として管理されました。権現山は、「徳川家康が東金への鷹狩御成の途中に立ち寄り休憩を取った」との言い伝えがあります。この権現山について、宇那谷村の古文書「延享3(1746)年村明細帳」(千葉県文書館所蔵中村家文書)が次のように伝えています。

「御公儀様御除地、湯殿山権現、八町歩、右寺(大聖寺)支配」

つまり年貢免除の地所で、本尊は出羽三山のひとつ「湯殿山権現」とされています。

また嘉永5(1852)年「書上帳」(同家文書)には「右者東照宮より御寄附ニ付、依之四箇年目御礼登城相勤申候」となっており、権現山は家康から寄付されたもので、4年ごとにお礼の江戸城登城を実施していました。

ところで、明治3(1870)年に宇那谷村が提出した「本末寺号其外明細帳」では「境外除地大日山壱ヶ所、反別拾弐町歩、同寺(大聖寺)持」となっており、権現山は大日山に変わっています。明治維新の神仏分離令により権現の神号が一時禁止されたこともあり、「大日山」に改称したものと思われます。

六方野は鹿狩の舞台

嘉永二年小金原御鹿狩文書「絵地図」の写真
嘉永二年小金原御鹿狩文書「絵地図」(市指定文化財・井岡家蔵)


徳川将軍は4回の小金原(現在の松戸周辺)での御鹿狩を行っています。

享保10(1725)年と翌11年に八代将軍吉宗が、寛政7(1795)年には11代将軍家斉が行っています。そして最後の4回目は、嘉永2(1849)年3月18日の12代将軍家慶で、四街道市指定文化財の井岡家所蔵「嘉永二年小金原御鹿狩文書」において22点の古文書と大絵図2点が詳細に伝えています。

下総国小金ヶ原御鹿狩図の写真
下総国小金ヶ原御鹿狩図

  • 写真 川端弘士氏所蔵


現在の千葉・埼玉・茨城の約2千か村から約5万人の勢子人足が、北は利根川、東は鹿島川・小名木川、南は江戸湾、西は江戸川のヘリに設けられた49か所の揃所に集められました。

四街道市域では物井村・和良比村・小名木村に揃所が設けられ、四街道市域16か村から268人の勢子人足が、さらに印旛沼南部や利根川下流の村々を合わせて、209か村から、何と約5300人の勢子人足が集まりました。当時の市域16か村の人口は推定四千人ぐらいですが、その混雑ぶりが想像されます。

そして御成前々日の早朝、小金原に向けて2泊3日野宿をしながら追い立てを開始しました。六方野は初日午前中の追い立て場になり、大日山はちょうど昼食休憩の場所となりました。なお、この間、小金牧(中野牧・下の牧)の御狩場・追い立て場に生息していた野馬数千頭が六方野に囲い込まれました。

  • 参照
  1. 四街道の歴史第5号・第6号

屏風裏張文書「佐倉藩日記」の写真
屏風裏張文書「佐倉藩日記」


ところで最近整理した屏風裏張文書(四街道市所蔵)に、文化11(1814)年に佐倉藩主が六方野で鹿狩をした記録があり、この頃にはまだ六方野に鹿がいたことが分かりました。翌日、家臣たちに鹿肉が下賜されたことも記録されています。


抜粋
「一、六時過御供揃ニ而六方野為御鹿狩被為 入候 御出殿五前五寸 御帰殿六半打五寸」
「一、昨十八日御獲物之鹿肉、当番四人江被下候旨、元方斎藤加右衛門を以被 仰出候、御礼御小納戸江罷出候」

  • 協力
  1. 千葉県文書館県史古文書課
  2. 井岡敬則氏
  3. 佐倉市総務部行政管理課市史編さん
  4. 印西市立木下交流の杜歴史資料センター

お問い合わせ

教育委員会教育部社会教育課
「市史編さんだより」まで
電話:043-424-8934
FAX:043-424-8935

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電話:043-424-8927

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